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江戸時代、明治時代、大正時代の日時計




1.江戸時代の日時計
 江戸時代の時刻制度は不定時法でしたので、正確に時を記述するには、普通の日時計より複雑になります。江戸時代に日時計が意外と普及しなかったのはそのためかと思われます。日時計は定時法のものも使われました。

(1) 仰儀
 西村遠里の著した「授時解」巻十五には3つの日時計と百刻環が掲載されています。それを書き直して、以下にそれぞれ図に示しました。

 右図の左側の日時計は、くぼんだ半球の形をした内面に目盛が書かれている日時計で、仰儀と呼ばれています。中国の郭守敬(1231〜1316) の発明品です。西村遠里は梅小路天文台で見たものを書き残しました。しかし、写しのためかもわかりませんが、この図では目盛は正確ではありません。

 仰儀は空の半球にいる太陽を仰儀の半球に映し出す装置です。仰儀には十字の形をしたものが半球の上に載せられています。その一つの先には孔があいています。それを半球の中心に置き、その影が仰儀に影を落とします。中心には孔があいていますから、その部分だけは明るくなります。その孔の光が落ちる場所の目盛を見て、時刻を知ることができます。原理的には太陽の位置と正反対の位置に影が落ちるので、正確に南北をあわせ、目盛が正確で、正確な半球形ならば、かなり正確な日時計となります。
 目盛を工夫すれば、不定時法にも対応できる日時計です。

(2) 仰釜日とその変形型
 朝鮮では仰儀が少し変化しました。影をおとすものが十字の形をしたものではなく、とがった形となりました。その先が半球の中心にいくようにしたもので、仰釜日(ぎょうふにっき)と呼ばれました。直径は30cmほどのものが多く、国立科学博物館に所蔵されています。

 右側の日時計は奥側がくぼんだ半球形です。手前側は磁石です。その実物は中国書「中国古天文儀器史(2005)」に写真が載せられています。それによると、この半球形は仰釜日きのようです。これは仰釜日の変形型で、持ち運びができる簡単な仰釜日とみなしてよいでしょう。韓国では現在でもお土産品としてこのような日時計が販売されています。

 似たようなものは国立科学博物館が数多く所蔵しています。ただし、図のような直方体のものだけではなく、円形のものや四角いものもあります。これらは開くと、表に磁石、裏に日時計があるという構造になっています。日本製のものは半球の中心に柱(ノーモン)を建てたものが多いようです。目盛も簡単になっています。縦の線の直線の部分が九つで前後2つの線が朝のものが五つ、四つ、昼のものが八つ、七つにあたります。横線はないものが多いようです。太陽による柱の影が落ちるところにより時刻を見定めます。小さなものなので、道中に使用されたようで、そろばんがついているものもあります。
 この器具も目盛を工夫すれば、不定時法にも対応できる日時計です。しかし、江戸時代の日本製の日時計は定時法用なのに、不定時法で使用していること、目盛が細かくないことから、残念なことに正確な時刻を測ることはできませんでした。

(3) 傾斜変更式日時計その1
 右側の日時計は盤面の中心に柱(ノーモン)を建て、二十四節気にあわせて盤面の傾きを変えるものです。「傾斜変更式日時計」とは仮につけた名前です。太陽は盤面と平行に指すことになりますので、いつも柱の影は長くなります。盤面の表示は十二支で、定時法を取っています。この形式の日時計は国立科学博物館と学士院に現存しています。これは太陽が1日で天球の小円を一周すると考え、その小円と同じ平面上の円が日時計の盤面に対応します。ですから、太陽の動きが作る円と小円との傾きが同じならば、正確に時刻を表示できます。しかし、二十四節気ごとに傾きを変えますので、その分だけ誤差は生じます。定時法にのみ対応できる日時計です。
(4) 傾斜変更式日時計その2
 上の図のような形ではありませんが、これと同じ形式の日時計が中国系統の日時計として各地に残っています。写真の日時計は磁石と日時計が一緒になっており、盤面を二十四節気にあわせて傾きをかえることができます(個人蔵)。盤面の標示は十二支です。
ただし、これは江戸時代の日時計ではありませんし、中国の歴史的な日時計が掲載されている本にも掲載されていません。最近のものかもしれませんので、ご注意ください。
 これと同じ原理で、中国系統のもので、円形の器に磁石と日時計が納められているものもあります。その器には「日」と書かれており、日時計であることがわかります。ただし、これも古いものかどうかは確認できていません。定時法にのみ対応できる日時計です。


(5) 百刻環
 これは現在のコマ型日時計と呼ばれるものと同じで、渋川春海が考案したものと言われています。中央にその土地の緯度と同じ傾きを持った棒を置き、その回りに円筒形の目盛を配置しています。目盛は等間隔で1日を100分割しています。棒の影が目盛に落ちたところを見て、時刻を知ります。太陽の1日の移動は緯度と同じ傾きを持った棒を直径とする小円(春分、秋分のみ大円)になります。太陽高度による棒と目盛の角度の差が誤差の原因にはなりますが、大型の器具であったので、当時としては正確な日時計であったと思われます。「授時解」巻十五によると、春海の百刻環は環の直径が一尺三寸、幅一寸、厚さ三分とあります。残念ながら、現存するものはありません。
 定時法にのみ対応できる日時計です。

(6) 紙製日時計
 紙の先を垂直にたてて、それを水平に置くことにより、太陽が落とす影の長さで時刻を知る簡単な構造の日時計です。不定時法にあわせて作られているので、目盛は何種類か必要です。当時は一年を二十四節気にわけていますが、夏至と冬至を境に対象ですので、十三種類の目盛があります。その節気にあわせて、太陽の影を見て時刻を知ります。
 当時は本の中に挟みこまれてることもありました。
加賀藩関係の日時計に関してはこちらを御覧ください。
象限日時計や江戸時代の日時計に関しては大阪市立科学館の研究のページを御覧ください。


2.明治時代、大正時代の日時計
日本帝国の名前がある日時計
 明治時代に入り、定時法が採用されると、現在と同じ日時計が使われるようになりました。当時、時計は高価なものでしたから、日時計は便利なものとして普及したようです。写真(個人蔵)のものは直径6cmほどですが、全国にかなりの数が残っています。

 当時は標準時が採用されましたので、経度により太陽の南中時刻が異なります。この日時計では太陽の南中時刻を正午としていますので、経度差を補正しなければいけません。そのため、日時計の裏面には全国各地の経度差を時刻の差に直す表が記載されています。



富山市科学博物館:富山市天文台
作成 2007-02-07
最終更新 2007-09-30
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