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天保の改暦




 寛政の改暦は西洋天文学を導入したものの、月食予報も充分ではなかったので、高橋至時はラランデ暦書の翻訳に全力を傾けました。しかし、その熱心さのあまり、病死しました。

 長男の景保もシーボルト事件で獄死したので、そのあとを継いだのは次男の景佑でした。また、江戸には足立信頭、信順親子、大阪には間重富の子、間重新がおり、景佑を手伝いました。景佑は渋川家の養子となり、改暦の実力を蓄えつつある時、1841年(天保12年)に改暦の命が出され、1844年(天保15年=嘉永元年)に施行されました。

 天保暦は1873年(明治6年)、太陽暦が採用されるまで施行された、最高水準の暦でした。従来の暦とは異なる点が二つあります。一つは一般の人にもわかるように、不定時法を用いて暦日を記載したこと、もう一つは黄道を24等分し、その地点を太陽が通る日を二十四節気としたことです。これにより暦はさらに複雑になりました。

 天保暦は「新法暦書」にまとめられています。内容は以下の通りです。
巻一〜三 数理総論 上中下
巻四、五 日躔数理 上下
巻六〜八 月離数理 上中下
巻九〜十 交食数理 上下
巻十一〜十二 月食数理 上下
巻十三〜十七 日食数理 一〜五
巻十八〜二十五 割円八線表 一〜八
巻二十六〜三十 ◆宇総論 一〜五



富山市科学博物館:富山市天文台
作成 2001
最終更新 2007-07-12
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