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江戸時代の時刻制度




1.不定時法
 江戸時代の時刻制度は現在のものよりはるかに複雑です。夜明け前と夕暮れ時を基準にして、昼を6等分、夜を6等分します。この6等分されたものを「一つ(一とき)」といいます。夜明けや日暮れは季節によって変わります。現在は一時間は六十分で、正確に一定の時間ですが、江戸時代では、例えば夏の昼の「一つ(一とき)」は長く、夜は短く、冬は昼は短く、夜は長くなります。そのため、1年間を二十四節気にあわせて二十四分割し、時刻を変えていたのです。自然に合わせた生活だったわけです。これを不定時法といいます。このような時刻制度は現在の時計のある生活では奇妙に映りますが、時計のない昔の生活では、「明るい時は昼、暗い時は夜」というわかりやすい発想として受け入れられていたようです。

2.時の呼び方
 時の呼び名も非常に複雑です。時刻の基準となる六つは日の出前や日の入り後の時刻です。この時には、手の筋がうっすらと見えたり、明るい星がぱらぱらと見えたりするほの明るい時で、明け方を「明け六つ」、夕方を「暮れ六つ」と呼びました。そして、明け方から夕方までを六等分、夕方から明け方までをそれぞれ六等分しました。呼び方は奇妙なことに時間が経つにつれて五つ、四つと数が少なくなります。四つまで下がった次は、九つに急に飛び、そして、八つ、七つ、六つとまた数が少なくなります。現在の午後三時頃の「おやつ」は「八つ」の時刻が語源です。なお、その場所で太陽が真南に来た時が九つです。これは経度によって変わりますし、地球が太陽のまわりを楕円を描いて回っていますので、季節ごとに微妙に変わります。

 この時刻制度や時の呼び名はいつから始まったかは良くわかりません。平安時代は水時計である漏刻を採用していたので、現在と同じような「一とき」は一定時間で、一日を真夜中の「子」から始まる十二支で表わしていました。九二七年に制定された「延喜式」にもそのような規程があり、宮城の門は朝開き,夜閉じていました。その時刻に太鼓を打つ役目の陰陽寮は日の出,日の入りの時刻を計算し、それにあわせて、季節により開門、閉門の時刻を変えていたようです。また、当時は十二支の時刻を太鼓で、その下の時刻を鐘で知らせていた。子と午の時刻は太鼓を九つ、丑と未は八つ、寅と申は七つ、卯と酉は六つ、辰と戌は五つ、巳と亥は四つ太鼓を打っていました。この時刻の太鼓の数が江戸時代の時刻の呼び名の基となったようです。

 江戸時代の最も新しい暦(天保暦)による時刻は以下の通りです。

    暁  九時、八時、七時    明  六時
    朝  五時、四時        昼  九時、八時
    夕  七時            暮  六時
    夜  五時、四時


3.時刻の基準

 明け六つと暮れ六つの基準は、寛政暦では太陽の中心高度が地平線下7.36度の時と規定しています。また、一時を10等分し、分と称します。慣用的に一時を2分割し、半時とします。ただし、この場合九つの次に九つ半が来て,次は八つとなります。


4.定時法

 江戸時代でも十二支による表示法(不定時法と思われる)もあり,天保改暦以前においては、伊勢暦などに記載されていた時刻は、十二支により表されていました。1日を十二等分しましたので、一つは2時間になります。

    子   午後11時〜午前 1時
    丑   午前 1時〜午前 3時
    寅   午前 3時〜午前 5時
    卯   午前 5時〜午前 7時
    辰   午前 7時〜午前 9時
    巳   午前 9時〜午前11時
    午   午前11時〜午後 1時
    未   午後 1時〜午後 3時
    申   午後 3時〜午後 5時
    酉   午後 5時〜午後 7時
    戌   午後 7時〜午後 9時
    亥   午後 9時〜午後11時

 また、十二支をさらに初刻と正刻に2分割し,さらにそれを4分割した表現方法もあります。例えば、

    子初刻   午後11時〜午後12時
    子正刻   午前 0時〜午前 1時

暦学では1日を100等分し,それを刻とし,その100分割か10分割を分としていました。




富山市科学博物館:富山市天文台
作成 2001
最終更新 2007-07-12
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