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上田城の公園内にあり、上田駅から上田城の中に入り、市立博物館に向かって右方向に折れると、階段を上った城壁の上にある。少し分かりにくいので、要注意。私は上田城を一周して、やっとみつけた。訪れたのは夕闇が迫る頃で、あわてて、シャッターを切った。左下に見える建物が市立博物館。 長野県の時の鐘は戦時中に供出されたものが多い。銘文にある通り、市民の善意により、鐘が復元され、「平和の鐘」と名付けられたエピソードは感動的である。後世に残したいものの一つである。 銘文は以下の通りである。 平和の鐘建設の由来 時の鐘の歴史は延宝五年(1677年)原町問屋日記の文献により明らかにされているが、或いはそれ以前からか、時を知らせる鐘として上田城下の住民に親しまれて、日常生活に欠かす事ができなかったと伝えられる。 以来二百数十年の長い間、正しい時を知らせ続けてきたが、時代の移り変わりの中で大正十四年、この知らせはサイレンに代わった。また、鐘の位置も幾度か変わり、昭和九年に上田城跡のこの場に落ち着いた。 昭和十八年大東亜戦争が次第に悪化するにしたがい、遂に軍に徴発され、時代と共に鳴り続けた。「時の鐘」は姿を消して、ただ、鐘楼のみが淋しく歴史を物語り風雪に耐えていた。この歴史的遺産をなんとか復元しようと市民の間に何度か計画されたが、その実現には至らなかった。しかし、このたび昭和四十七年上田市自治会連合会にこの復元運動が起こり、広く全市民の協賛によって、その名も「平和の鐘」と改め三十年振りに昔の姿に再現された。この鐘の鳴り響くかぎり、再び悲惨な事の起こらないよう十万市民の平和の願いがこの鐘に込められている。 昭和四十八年吉日 上田市 |
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長野市の松代にある。松代は真田宝物館、佐久間象山記念館などがある歴史の街である。歩いていると大変趣のある街である。長野市内ではあるが、長野駅から少し離れており、この時は車で訪ねた。中に入ることはできず、道路から眺めていた。 銘文は以下の通りである。 旧松代藩鐘楼 長野市文化財 昭和四十三年十二月二十日指定 この鐘楼は、真田信之が元和八年(一六二二)十月、上田城から移り、松代藩主となってまもない寛永元年(一六二四)に設けたもので、ここに松代藩足軽千人余りの番割をした割番役所を置いたので、割番所ともいった。 この鐘は昼夜の別なく一時(いっとき:約二時間)ごとにつかせて時刻を知らせ、また、城下に出火の際、非常を知らせた。城下町のたび重なる大火で、享保二年(一七一七)、天明八年(一七八八)、寛政十二年(一八〇〇)の三回類焼にあい、初代、二代の鐘は焼損し、文化三年(一八〇六)に作られた鐘は太平洋戦争中に供出された。平成三年旧鐘の寸法・重量を模して、新しい鐘がとりつけられた。 寛永元年建築のものは、鐘楼と火の見が一体建てだったが、寛政十三年の火災のあと別棟とし、享和元年(一八〇一)に再建されたものが現存する鐘楼で、北隣にあった火の見櫓は明治初期に取りこわされた。 また、この鐘楼は嘉永二年(一八四九)佐久間象山がオランダ語の書物をもとに電信機を作り、北東七十メートルにあった御使者屋に電線を張り、両者の間で電信実験に成功した「日本電信発祥の遺跡」である。 平成八年九月 長野市教育委員会 松代史跡文化財開発委員会 |
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高遠城の中にある。高遠城は桜で有名な場所で、私はゴールデンウィークに訪れたが、桜は葉桜であったが、一面桜のじゅうたんとなっていた。楼には登ることはできなかったので、太鼓は見ることができなかった。行きは諏訪から道なりで1時間ほどかかったので、帰りは伊那に出て、高速を利用した。やはり、夕方に訪れたので、あわてて撮影した。 銘文は以下の通りである。 太鼓櫓 藩政時代、城内搦手門内にあった太鼓は、毎日偶数時にこれを鳴らして藩士の出退や城下町民に時を報じ、その便益を計っていた。廃藩の際、城の建物が撤去された時一時城南白山に楼櫓を建造してこれに移したが、明治八年再びこの地に戻し、現在の鼓楼は明治四十五年建築されたものである。この年、大太鼓も張り替え、現在高遠閣の二階にあるのがそれである。 |
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須坂市常盤町の奥田神社隣にある。鐘楼は市指定有形文化財となっている。須坂の街中の公園の中にある。なかなかみつけにくい場所であるが、一角はきれいに整備されていた。 銘文は以下の通りである。 須坂市指定有形文化財 時の鐘の「鐘楼」 昭和五十年四月一日指定 須坂藩時の鐘は第八代藩主堀直郷(ほりなおさと)が天明二年(一七八二)に造り、第九代藩主堀直皓(なおてる)公が鋳なおして、鐘楼を館の北西隅の現在の浮世小路入口付近に建てたと伝えられています。大正初年、鐘楼は現在地に移されましたが、部材の程度から、建設当初のものと考えられます。 なお、百六十年余り時を告げた鐘は、第二次世界大戦で供出されてしまいましたが、平成十二年十月に新たな鐘が寄贈され、半世紀ぶりに「時の鐘」は復活しました。 平成十一年三月設置 平成十二年十二月改訂 須坂市教育委員会 参考文献: 長野市立博物館,時と太陽の物語,1988,長野市立博物館 |
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