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西村太冲に関する疑問点




  西村太冲を調査しているうちにわからないことが次々とでてきますが、その中で具体的に気づいたことをリストアップします。

1.符天暦の名前の由来

 符天暦という名前の由来はよく分かりません。東北大学に改数符天暦書という本がありますが、関係ある可能性もあります。一般的な符天暦は中山茂著「日本の天文学」によると、780-783年頃に曹士が作り、957年に仏僧によって日本に輸入された中国の非公式な暦となっています。これはインドの天文学の方法で、太陽の中心差が二次曲線になっているそうです。中央アジアのウイグル暦に似ているそうです。

さらに太冲はその後、実符暦も作りますが、ここにも「符」という漢字が使われています。何か意味のある漢字かも知れません。
2.城端時代の活動

 太冲の活動で加賀藩を辞してから城端にすんでいた頃の記録があまりありません。この時期にどのような生活を行ったのか、そして加賀藩に再度登用されるきっかけとなった遠藤高mとの出会いはいつなのかがよく分かりません。


3.小林求という人物について

 太冲の著書に「寛政十二年四月朔日食実測」があり、東北大学と学士院に所蔵されていますが、学士院のものは小林求が写したとあります。この人物が誰なのか、分かりません。また、同じく学士院に「寛政十四年符天暦見行草」があり、著者は小林求推歩となっております。距算は十三で、寛政元年が暦元となり、太冲の符天暦と同じになります。歳実は365.241543です。また、著書に「寛政九年貞享元暦見行草」もあり、これは貞享元年を暦元としています。距算は百十三年になります。このように太冲と関係がありそうな人物ですが、その関係が出てきません。



4.近藤信行との関係

 太冲の著書の写しを近藤信行が行っています。この両者の関係が見えてきません。
5.実符暦が岡山に

 天保七年八月二日付の片山金弥より窪田浅五郎宛ての手紙(岡山県立博物館蔵)に「其外実符暦、猪飼先生推歩之中星抔見申度様ニ被申候。」とあり、その後も実符暦の貸し出しのやりとりがあります。これは太冲の著書と思われますが、どのようなルートで流れていったのかが解明されていません。



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作成 2001
最終更新 2007-07-12
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