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西村太冲の生涯1

京都・大阪で天文暦学を勉強する




1.太冲とその先生、西村遠理

 太冲は明和四年(1767年)に越中(現在の富山県)城端町簑谷に生まれました。名前は篤行、号は審之。得一館とも称しました。父は蓑屋長兵衛。天明三年(1783)に京に上って、医術を勉強するかたわら、西村遠里に天文暦数を習いました。西村遠里は京都の陰陽師土御門家にいました。当時の幕府の天文学者は天文学の実力がなく、あるべき日食の予報を暦にのせなかったという大失敗を犯しました。これを指摘したのが西村遠里・麻田剛立など、民間の天文学者でした。1763年のことです。遠里は本業の薬屋を営みながら、天文学だけでなく、国学にも通じた博学の人でした。

 太冲が入門してから4年後に不幸なことに遠里はなくなりました。笹屋という弟子をはじめ弟子達は相談して、遠里の後継者として太冲を選びました。このとき以来、太冲は「西村」という姓を名のるようになりました(1787年)。太冲にとっては非常に栄誉なことだったと思われます。


2.麻田剛立に入門

 太冲はさらに勉強しようと思い、麻田剛立の門をたたきました。麻田剛立は九州の人でしたが、侍をやめて大阪に出て、天文学を勉強していました。いままでの天文学に満足せず、西洋の考えを書いた中国の本を勉強していました。特に観測を大切にし、観測結果から暦を修正するという考えの持ち主でした。

剛立は最初は太冲の入門を許しませんでしたが、その熱心さに心を打たれ、入門を許しました(1789年ころ)。剛立の下にはその後、数々の業績をあげた高橋至時、間重富という人がおりました。彼らは弟子とは呼ばれましたが、実際は剛立の研究仲間でした。太冲は文字とおり弟子の扱いでしたが、熱心に勉強し、「消長法」(1年の時間数が毎年変化しているので、それをもとに計算する方法)をマスターしました。この消長法をマスターしたのは、数ある弟子の中でもわずか4人しかいなかったのです。このことから太冲は当時の最先端の天文学者と言っていいでしょう。

太冲は大阪では天体観測を実地に行い、時の最先端の観測器具の扱いを身につけました。この科学的に測定するという姿勢は後に花を開きます。


3.加賀藩に招かれる

 寛政十一年正月、加賀藩は太冲を明倫堂の天学の講師として招きました。太冲はこれを受けて、当時の最先端の天文学を加賀藩にもたらします。一つは暦です。麻田剛立は中国の「暦象考成」という本をもとにした暦を作成し、「実験録」という本を書きました。太冲はこれを元に「実符暦」という本を著し、城端を基準とした暦を作成しました。これはその前に本保以守が書いた「加州改算暦推歩」よりすぐれた暦でした。

もう一つは観測機器です。寛政十二年四月の日食を金沢城少し北の母衣街で観測しています。観測器具は子午線表、垂揺球、授時公、象限儀、観星鏡、写景鏡、ゾンガラス、視径儀、西洋鍼でした。この器具は当時の最先端の観測器具で他の藩士にも驚きの目で見られました。

 しかし、太冲の最先端の天文学も加賀藩では素直には受け入れられませんでした。この時代、天学は命理と形気の二種類がありました。命理は陰陽を説くもので、占いにちかいものでした。形気は太陽、月、惑星、恒星の運行、月の満ち欠け、日食、月食を観察し、気候や時を定めるもので、これは現在の科学に通じるものでした。太冲は明倫堂で命理を教えるようにいわれたのですが、自分の学問は形気の学問(科学)であるとして講師を辞職しました。つまり、占いを選ぶか科学を選ぶかという選択で科学を選び、辞職したということになります。

 太冲はそこで、京都に戻り、再度学問をしたいと申し出ましたが、毎年金五両を与えるので、藩内にとどまるように言われました。京都に登ることは、剛立と同じ弟子である、高橋至時の薦めでした。至時は太冲をまだ未熟であるので、さらに勉強するようにという思いを持っていましたが、それはかないませんでした。



富山市科学博物館富山市天文台
作成 2001
最終更新 2007-07-12
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