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西村太冲の生涯2

再び加賀藩で




1.伊能忠敬と出会えず
 加賀藩の講師をやめてからは、城端に滞在し、医師として生計を立てていました。
 享和3(1803)年には伊能忠敬が加賀藩の領地を測量するということがわかり、以前同僚であり、当時は伊能忠敬の師であった高橋至時に頼み、加賀藩での測量の手伝いを依頼しています。小原一白は、岐阜県の関に伊能忠敬を尋ね、この高橋至時の手紙を渡し、加賀藩に測量の手伝いを申し出るように依頼しています。伊能はその約束に従い、加賀藩にその旨申し出ますが、伊能の測量を快く思っていなかった加賀藩は太冲は病気であることを理由にそれを拒絶しました。
 なお、この年、伊能は射水市新湊で石黒信由と出会います。

2.日食・月食・彗星観測
 城端滞在中は日食・月食・彗星観測などの天体観測を行っていました。
 享和2(1802)年2月16日には城端宗林寺町にて月食観測を小原治五右衛門と行っています。太冲は城端ではこの宗林寺町に住んでいたと思われます。

 大阪市立図書館蔵の「寛政10年戊午4月以後連年日月食」という書籍には文化元年六月一七日(1804)の月食、文化元年十二月一五日(1805)の月食、文化五年十月一日(1808)の日食、文政二年三月一六日(1819)の月食の観測がなされた記録があります。

 また、金沢市立玉川図書館河野文庫にある文化四年(1807)、文化八年(1811)の彗星の観測は渡辺誠は西村太冲の観測と考えています。その根拠は中国の書籍で当時入手するのが限られていた「儀象考成」という書籍からの引用によること、星の位置の精度が非常に高いことによります。

 特に彗星観測は本来興味を持っていた、暦算に使用する太陽や月の運動とは異なる対象で、なぜ彗星の動きに興味を持っていたのか、間重富との関係があるのか、興味深いところです。

3.星図と渾天儀の製作
 彗星の星図は単なるXY座標でプロットされていますので、太冲らが「儀象考成」の位置データから作成したのではないかと思っています。
 一方、小原一白関係の資料の中に「儀象考成」を基にした球面を考慮した星図があります。これは現存する星図では同じような星図がありません。私の推測では、「儀象考成」の位置データから作成したのではないかと考えていますが、その証拠をまだ見出していません。

 また、小原一白は文化9年に渾天儀を作っています。渾天儀にはオランダ語が多数記載されています。太冲と一白は共にオランダ語を勉強したようで、「得一館」、「一白」をオランダ語で表現しています。
 どのように使用するために渾天儀を製造したのかはまだ解明できていません。今後、そのあたりを研究できないかと思っています。
4.加賀藩に再び登用される
 文政4(1821)年7月26日。太冲は天文学に通ずるという理由で御医師格に召出され、十五人扶持を仰せつけられました。これ以降、遠藤高mの下で、金沢測量と時刻制度の改正を行いました。これらの事業では、三角関数や弧三角(現在の球面三角)を駆使して行われました。その理論的側面を担ったのが太冲でした。
 事業を共に行ったのは河野久太郎、三角風蔵、日下理兵衛、早川理兵衛です。河野久太郎の「御次御用留帳」には彼等が測量、時刻制度の改正で、毎日仕事をしていたことがわかります。
 太冲は金沢の彦三町に住んでいました。文政5年12月15日には月食観測を行っています。


5.時刻制度の改正と金沢測量
 文政5年からは金沢測量、時刻制度の改正に着手します。その詳細は別項でご覧ください。



富山市科学博物館富山市天文台
作成 2007-07-04
最終更新 2007-07-12
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