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中国の星座の歴史






(1) 二十八宿の成立
 江戸時代までに日本で使用されていた星座は中国星座です
 中国の最も古い星座は二十八宿と呼ばれるもので、星宿とも呼ばれています。それがいつごろ作られたかは諸説があり、さだかではありませんが、遅くとも前5世紀には成立していたと考えられています。

(2) 「史記」天官書と「漢書」天文誌
 「史記」天官書は紀元前91年に「漢書」天文誌は92年頃編纂された書物で、ほぼ同じ内容です。大崎正次氏によると、この頃には二十八宿以外に90の星座、615星があったと分析されています。「史記」天官書では星座は五行思想にのっとり、中官・東官・南官・西官・北官の五つにわけています。星座の中で最も尊い中官には北極付近の星、一晩中地平線の下に沈まない星があてられました。中官・東官・南官・西官・北官の星座は以下の通りです。

中官:天極星、太一、三公、正妃、後宮、紫宮、陰徳、天一、天槍、天、営室、閣道、北斗、竜角、衡、魁、文昌宮(上将・次将・貴相・司命・司中・司禄)、三能、輔、招揺、天鋒星、句、えん
東官:房、心、右さん(ゆうさん)、ツ、かつ、旗、天市、市楼、騎官、法官、武官、大角、南門、尾、箕、角。
南官:権、衡、太微、執法、端門、■門、諸侯、五帝坐、郎位、将位、少微、権、軒轅、女御、後宮、東井、鉞、北河、南河、天闕、天の関門、輿鬼、質、柳、七星、張、翼、軫長沙、天庫楼
西官:咸池(五)、三柱、奎、婁、胃、昴、畢、附耳、天街、陰国、陽国、参、衡石、罰、觜き、天厠、天矢、天旗・天苑・九、狼、弧、南極老人。
北官:虚、危、羽林天軍、塁(また鉞ともいう)、北落、司空、営室(離宮)、天し(四頭立ての天馬)、王良、天、江、杵、臼、鮑瓜、南斗、建、牽牛、河鼓(上将と左右の将)、ぼう女、織女。

 天官書をみていて気づくのは、以下の点です。
(1) 星座の順番が東、南、西、北の順番になっており、天空上での二十八宿の並びの順番になっていません。これは私は、占いに重きを置いたためではないかと思っています。
(2) 各官に代表する星座が二つずつあります。即ち、東官は房、心、南官<は権、衡、西官は咸池、北官は虚、危です。これは他では例をみない表現です。
(3) 星座の名前はその後変化し、宋時代にほぼ安定しました。


(3) 歩天歌
 「歩天歌」は隋の時代(A.D.6世紀末)に丹元子が、星座を読み込んだ詩で、各々の星座が基準となる星座に対してどの位置にあるかを読み込んでいます。「歩天歌」では、星座の位置は紫微垣、太微垣、天市垣、二十八宿に分けられていて、ここでは星座の序列が中官、東官、南官、西官、北官から変わったことになります。ただ、確実な流れになるのは後世です。「歩天歌」に元々は星図がありませんが、その後のものには星図が付加されているものも多いようです。

(4) 開元占経
 開元占経は唐時代の開元年間(713〜)に編纂された星占いの書物です。この時代に中国の星座は整理され、それ以降、この星座が基本となります。この時期にはそれまで知られていた星座として殷時代の巫咸(ふかん)、魏の国の石申(せきしん)、斉の国の甘徳(かんとく)が作った星座と伝えられるものが整理されました。これらは戦国時代に当たりますが、本当にこの時代に作られたかは疑問です。言い伝えの星座として以下のように整理されました。

   石氏   二十八宿、中官62星座、外官30星座
   甘氏        中官75星座、外官42星座
   石氏        中外官44星座

(5) 「蘇頌星図」と水運儀象台
 蘇頌 (1020〜1101)は中国・北宋時代の天文学者です。韓公廉らと水力で動く水運儀象台を作りました。これは現在、諏訪市に模型が復元されています。渾天儀、天球儀、報時装置があり、水車で動くようになっており、その時見える星空が天球儀で再現されるようになっています。
 この時、水運儀象台の解説書である「新儀象法要」3巻を著しました。その中に星図として納められたのが「蘇頌星図」です。ここでは星座は中官、東官、南官、西官、北官にわけられています。北極付近は円図、赤道前後は方図で表されています。

(6) 淳祐天文図
 淳祐天文図は、淳祐7(1247)年に蘇州で黄裳が作った石碑です。蘇州天文図、黄裳天文図とも呼ばれています。現存するものはその拓本で、多くの場所で展示されています。北極星を中心とした円図です。
 薮内清氏によると、「淳祐天文図」「蘇頌星図」はともに「元豊年間(1078-1085)の観測によるもの」と論考されています。大崎氏によると、「淳祐天文図」の製作者黄裳は天文学者でないので、数多くの誤りがあり、それらを指摘されています。さらに、この星図を天文学的な側面からみるのではなく、「古代中国人の世界観と天人相感の思想を盛り込んだ show 的な陳列品」と見るべきであると評価されています。

(7) 西洋人の手になる「崇禎暦書」
 明の後期には中国では天文暦学は進歩が止まっていました。そこにキリスト教布教を目指した西洋宣教師は天文学に詳しい宣教師を派遣しました。ここで、中国天文学は中国の伝統を保ちながら西洋天文学を受け入れるという体制をとりました。その代表的な宣教師がマテオ・リッチ(1552〜1610):中国名は利瑪竇(り まとう)です。1582年マカオに着き、95年南京に、また98年北京に赴きました。彼らは中国人の天文学者、李之藻、徐光啓と協力しながら、アダム=シャール(湯若望)とともに「崇禎暦書」137巻(1631〜1635)を編さんしました。
 これに先立ち、恒星の位置が精密に観測されました。恒星の位置は崇禎4年8月1日(1631年8月27日)に発表された「恒星暦表」4巻に納められています。後に再編纂された「西洋新法暦書」では「恒星暦指」巻5、巻6です。その内容は星名、黄道経度分、黄道緯度分、赤道経度分、赤道緯度分、等級です。度数は360度法で表され、その精度は1'です。中国の伝統的な星座名で表現され、南極付近の星座を含みます。星数は1362星で、1等星16、2等星69、3等星211、4等星510、5等星334、6等星215です。

 星図は崇禎4年8月1日(1631年8月27日)に発表された「恒星図像」1巻、後に再編纂された「西洋新法暦書」では「恒星暦指」巻4におさめられています。「見界総星図」1幅、「赤道南北両総星図」2幅、「黄道南北両総星図」2幅、「黄道二十分図」20幅の4種類があります。「見界総星図」は中国の伝統的な星図の形式で北極を中心とし、中国で見ることができる南天の星座までを1枚の星図に納めたものです。「赤道南北両総星図」、「黄道南北両総星図」はそれぞれ北極・南極、黄北極・黄南極を中心とした2枚の円形の星図です。「赤道南北両総星図」には北極・南極を通る経線のほかに、黄北極・黄南極を通る経線が描かれたいますが、「黄道南北両総星図」には黄北極・黄南極を通る経線のみ描かれています。
「黄道二十分図」は黄北極・黄南極を中心とした短冊状の星図で黄緯68度から黄極までの星図:2幅、黄緯20度から黄緯70度までの星図:南北12幅、、黄緯北20度から黄緯南20度までの星図:6幅からなります。

(8) 西洋人の手になる「霊台儀象志」
準備中

(9) 集大成と言える「儀象考成」
準備中



参考文献:
大崎正次氏著「中国の星座の歴史」(雄山閣)
川原秀城著「東洋の星図」(千葉市立郷土博物館編「東西の天球図」より)
陳美東著「中国科学技術史」天文学巻(科学出版社)



富山市科学博物館富山市天文台
作成 2004-02-14
最終更新 2007-07-25
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