白萩隕鉄と流星刀
富山県に落下した隕石とそれに関係する資料を紹介します。
(1) 白萩隕鉄第1号
明治23年(1890年)頃に発見された隕石である。詳しい採集場所は不明であるが、現在の上市川ダムの上流で、千石地内よりもさらに上流と考えられている。大阪造幣局に鑑定に出されたが、その時はただの鉄の固まりと判断されて分析されなかった。明治28年に改めて農商務省地質調査所で鑑定され、八面体結晶のウィドマンシュテッテン構造がみられたことから隕鉄と鑑定され、白萩隕鉄と名づけられた。
明治28年3月、榎本武揚子爵がこの隕鉄を購入し、刀工の岡吉国宗に刀をつくらせ、流星刀と名づけた。余りの隕鉄は、明治42年に榎本武憲氏により国立科学博物館に寄贈され、現在に至っている。
参考文献:倉谷寛「白萩隕鉄始末」、星の手帖No.9、1980年
(2) 白萩隕鉄第2号
明治25年(1892年)8月上旬、上市町の上市川上流、千石川のキルリ(切理)谷付近で発見された隕鉄である。
当時、岩井竹次郎氏を頭に5人の人たちが燃料用の薪の用材を運び出すため、千石地区から11km上流のキルリ谷で木の切り出しを行なっていた。谷を堰き止めて水をため、そこに切り出した用材を集め、堰を切って一挙に下流に用材を流す「鉄砲流し」という手法を取っていた。その鉄砲流しを終えた後、堰の中に藤木松太郎氏が黒い石を見つけた。
この石はしばらくの間、頭であった岩井氏の家に保管されていたが、明治43年の末頃、地質調査所で隕鉄と鑑定され、早乙女隕鉄と名づけられた。その後持ち主は不明であったが、倉谷寛氏他の努力で藤木氏の子孫の方により大切に保管されていることが確認された。昭和54年(1979年)、隕石を二分してその半分を富山市科学文化センター(現在の富山市科学博物館)の開館にあわせて寄贈していただいた。
なお、早乙女隕鉄は国立科学博物館で調査された結果、成分が白萩隕鉄とほぼ同一であることから、もとは白萩隕鉄と同一の物体であるとされ、白萩隕鉄は白萩隕鉄第1号、早乙女隕鉄は白萩隕鉄第2号と称されるようになった。
参考文献:倉谷寛「白萩隕鉄始末」、星の手帖No.9、1980年
(3) 白萩隕鉄の碑
隕石落下を後世に伝えるため、昭和56年10月、上市町の千石神社に記念碑が建てられた。
碑文の内容は以下の通りである。
白萩隕鉄について
明治二十三年(1890)旧白萩村地内において発見された隕鉄は、重さ22.2キロ、形はU字形であった。のちに白萩一号と命名され、この一部で流星刀を製作し、残りは現在、国立科学博物館に所蔵され保存されている。
さらに明治二十五年、千石より十一キロ上流のキルリ谷において、ころ流し作業中の人たちが発見した隕鉄がある。この重さは10.9キロで、白萩二号別名、早乙女隕鉄と命名し、現在、この隕鉄は二分され、一つは民間の所有となり、他の一部は富山市科学文化センター(現在の富山市科学博物館)に保管されている。
隕鉄の調査については、昭和三十八年より上市町教育委員会・富山県天文学会が行なってきたものである。隕鉄落下ゆかりの地に記念碑を建てて後世に伝えるものである。
昭和五十六年十月
上市町教育委員会
富山県天文学会
(4) 流星刀
白萩隕鉄第1号より作られた日本刀。
箱館戦争で有名な榎本武揚が明治28年(1895年)に白萩隕鉄第1号を取得し、刀工の岡吉国宗に依頼して、明治31年、長刀2振と短刀3振、合計5振の刀を作らせた。これらは流星刀と名づけられ、うち長刀1振が当時の皇太子(後の大正天皇)に献上された。他の長刀1振は現在、東京農業大学に保管されている。また短刀は、1振が北海道小樽市の龍宮神社に奉納され、1振が武揚のめいの嫁ぎ先の家系で保管されており、当館で短刀1振を収蔵している。