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大海原を越えて 疑問に答えます

Q)北前船とは
日本海沿岸を通って北海道−大坂間を結ぶ廻船のこと。
運賃を取って荷物を運ぶのではなく、各寄港地で商売をしながら航海した。
富山では「バイ船」と呼ばれた。
1700年ころ以降、「弁財船」と呼ばれるタイプの船が使われた。


Q)荷物をどれだけ積めるのか
小さい船で300石程度、大きな船だと1500〜1600石積も存在。


Q)1石はどのくらいの重さか
約150kg


Q)長者丸の大きさは
650石積、すなわち約100トン積。


Q)なぜ日本海航路でなく、太平洋へ向かったか
薩摩藩への昆布を積んでいたため、関所がある日本海側の港を通りたくなかった。


Q)漂流中は何を食べていたか、水はどうしたか
積み込んでいたわずかな米、昆布、塩鮪、流れてきた海藻、船底に付着した海藻、捕った魚など。水は雨水。


Q)五三郎の死因は
味噌が入っていた桶の中へ入り込んだ海水を飲んだ後、急に衰弱して死亡した。
プラネの物語中では、起きてこないから見に行ったところ死亡していたことになっているが、実際にはみなが寝ている間に人知れず死亡したようである。


Q)なぜ1本マストが日本の船で、3本マストが外国の船だとわかったか
幕府の令で、帆柱は1本と決まっていた。したがって複数のマストを持つ船は外国船。


Q)アメリカも捕鯨をしていたのか
1940年ころまでは、商業捕鯨をしていた。現在も一部の少数民族には、捕鯨が認められている。


Q)言葉は通じたのか
外国船に助けられたときには身振り手振りであったが、後に外国語を話せるようになった
時規物語に、英語・ロシア語・ハワイ語と日本語の対照表がある。


Q)次郎吉たちは星を観察したのか
時規物語の記述に、滞在した各地にて北極星がどのようにみえたか書いてある。従って、彼らは星を観察していたものと思われる。
またアメリカ捕鯨船に乗船しているときに、日食も観測している。

また、彼らは月の満ち欠けを観察して、太陽太陰暦(当時の日本の暦)で日を数えていた。択捉に着いたとき、誤差はわずかに1日だった。

Q)次郎吉たちが持ち帰った時計の現在のありかは
明治17年(1884年)、元の富山藩藩主前田利同(まえだ としあつ)伯へ献上された、という記録以降行方不明。


Q)鎖国中に外国へ行って、彼らは罰せられなかったのか
外国へ行ったことに対しての罰はなかったようであるが、幕府と加賀藩から厳しい取調べを受けた。


Q)次郎吉たち以外にも漂流した人はいたのか
記録に残っているだけでも何件もある。記録に残っていない、すなわち漂流したまま助けられなかった人も多くあっただろう。
長者丸と同じときのシケで、他に7隻の船が行方不明になっている。


Q)アメリカへ最初に行ったのは、ジョン・万次郎では
ジョン万次郎(中濱万次郎)は、天保12年(1841年)に漂流、鳥島に漂着し、のちアメリカ捕鯨船に救出されてハワイへ向かった。その後、本人の希望でアメリカ大陸へ渡り、高等教育を受けた。嘉永4年(1851年)、帰国(琉球)した。
ハワイがアメリカ合衆国に編入されたのは、明治31年(1898年)のことで、次郎吉たちや万次郎がハワイに着いたころは、「ハワイ王国」である。
ゆえに、ジョン万次郎がアメリカへ最初に行った日本人とされる。
長者丸以前にも、日本人がハワイへ行った記録が残っている。

ちなみに、次郎吉らがハワイに残した貨幣やキセルを万次郎に見せて、それを使っている国から来たのだろうと尋ねられて、万次郎らがそうであると答えた、という話がある。


Q)長者丸の持ち主は
富山古寺町(現富山市常盤町) 能登屋兵右衛門(薩摩組売薬)→のちの密田家
吉岡屋平四郎は沖船頭(雇われて船頭になる者)


Q)長者丸に関連するもので、何か現在まで残っているものは
太三郎の墓が東岩瀬駅近くの墓地にある。
次郎吉が目を洗ったという井戸が岩瀬幸町にある(浦方の井戸)。 現ドラッグフジイの北東側、岩瀬幸町公民館の近くにある(看板が出ている)。


Q)長者丸の漂流に関する史料をみることは可能か
時規物語:尊経閣文庫(東京)に所蔵、ただし「日本庶民生活史料集成第5巻」に収める
蕃談:富山県立図書館蔵(元は富山藩が所蔵していたもの)、同館ホームページにて閲覧可能、また平凡社の東洋文庫に口語訳を収める
漂流人次郎吉物語:高岡市立中央図書館蔵、読み下しした冊子が同館で作られていて閲覧可能







富山市科学博物館:富山市天文台
作成 2008
最終更新 2008-03-07
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