全国に先駆け天体撮影
富山市天文台 (第59回)



  
   
   かつては国内最大級だった40センチ反射望遠鏡
   
 昭和二十九年四月、富山城址公園は多くの人でにぎわっていた。 富山産業大博覧会が開催されたのである。その中で「天体と変化館」は人気があった。中に入ると宇宙旅行のパノラマ等の展示の他に大きな筒が目についた。「これは大砲ですか? 」と質問する人もいた。これこそ国内で最大級の四十センチ反射望遠鏡であった。当時の価格で百万円、後に呉羽山に設置された天文台の本体である。

 その後、望遠鏡は市役所屋上で一般に公開されていたが、昭和三十一年、呉羽山に天文台がつくられ、そこに設置された。当時としては画期的な施設である。世の中は終戦から立ち直りを見せたばかりで、 空を見上げる人は数少なかったが、宇宙へ夢をはせる思いは市民に伝わり、 開館当初は年間一万人を超える人が訪れた。

 開設時から天文台に勤めていた、前科学文化センター館長の倉谷寛氏は、望遠鏡で天体をのぞくだけでなく、「富山市天文台で撮影した天体写真を」と当時未開発だった天体写真の撮影に精力を注いだ。当時、天体写真といえば、アメリカの世界最大の望遠鏡で撮影された写真しかなかった。倉谷氏はカメラを自作し、自分で現像したが、 思うように天体は写らなかった。 研究を重ね、冷却カメラという天体写真に最適のカメラを考案した。これは星の光を効率よく蓄積するため、フィルムをドライアイスで冷やすカメラだ。

 昭和四十年代、富山で撮影された写真は天文台の壁を飾り、 その苦労話は訪れる人を魅了した。写真は全国の天文ファンに紹介され、 絶賛された。天体写真は当時まだ初期の段階で、天文雑誌の特集号に紹介された冷却カメラは、多くの人が改良し、 ブームとなった。 今日、多くの天文ファンが天体写真を工夫しながら撮影しているが、 富山市天文台がその先べんをつけた形だ。天文台は科学文化センターができてからはその附属施設となった。



(渡辺誠 2000年6月29日掲載)




 この文章の著作権は北日本新聞社にあります。富山市科学文化センターは使用権を取得し、ここに掲載しております。無断転載を禁止します。